時計事業ひと筋のカシオ新社長・増田氏に聞いた「今後、御社の腕時計をどうしていきますか?」
今年で誕生40周年を迎えたG-SHOCKを筆頭に、オシアナス、プロトレック、カシオ スタンダード(通称:チプカシ)などの時計ブランドを擁するカシオは、時計専門メディアであるWATCHNAVIにとって欠かせない企業のひとつ。今年3月の社長交代のニュースは、もちろん私たちのもとにも届けられた。新社長に就任したのは、増田裕一氏。かつてG-SHOCK関連のインタビューでもお世話になった、カシオで時計ひと筋のキャリアを重ねてきた人物である。そこで、私たちは同氏に時計部門の今後の展望などをインタビューすることにした。
Text/Daisuke Suito Photo/Kensuke Suzuki (ONE-PUBLISHING)
「新しい価値軸を創造していきたい」
WN:改めて社長就任、おめでとうございます。まずは記者会見から約1か月が経った現在の心境をお聞かせください(取材は4月中に実施)。
増田氏:創業一族である樫尾家以外で初めての社長ということで、身の引き締まる思いです。最初に話を聞いたときは驚きましたが、戸惑っていても仕方ないので今はとにかくやるしかないと覚悟しています。
WN:増田新社長の指揮のもとで、カシオはどのような企業になっていくのでしょうか?
増田氏:まず現在のカシオは、時計事業が会社を牽引している状況なので、他の事業でも業績を伸ばすことと、そのために企業としての活性化していくことが重要だと考えています。また、新しい事業活動を行っていくつもりでいます。それは新製品の開発ということに留まらず、新しい価値軸を創造し、オンリーワンの市場を築いていくということです。
G-SHOCKは本来「落としても壊れない丈夫な時計」という企画書から始まった“タフネス”が売りの腕時計でした。それが今では、スペックやデザインを超えたところで魅力を感じていただけるブランドになったわけです。また、これは実体験ですが、1980年代から90年代の国内の腕時計市場は多機能デジタルが数多く売られていました。スマホもネットもない時代ですから、腕時計がガジェット的なアイテムになるのは自然なことでしょう。本当にたくさんの腕時計がありましたが、その中でブランドとして伸びたのはG-SHOCKだけでした。
こうした事例のように便利であることからもう一歩踏み込み、お客様が“心の満足感”を得られるようなモノやコトを提供していきたいと考えています。ただ、自分自身も色々と模索中なので、まずは社員と今後のカシオが目指す方向性を共有していくことから始めています。
「機能追求か、アナログか、どちらを選ぶか」
WN:90年代後半、ブームが去ったG-SHOCKの業績が急激に落ち込んだ時期がありましたよね。そこからV字回復を遂げた立役者も増田さんだったと記憶しています。この復活劇の背景には、どのような采配があったのでしょうか?
増田氏:ブームは1997年がピークで、終焉は本当に一瞬で訪れました。一夜にしてマーケットでG-SHOCKが供給過多となり、私たちも余剰在庫を抱えることに。しかも、そのタイミングで私がG-SHOCKの舵取りをまかされるという(苦笑)。
あの頃は、今後のG-SHOCKをどうしていくべきか常に考えていましたね。結果、2000年以降のG-SHOCKはデジタル技術を応用した「アナログ表現」に力を入れていく決断をしたのです。オシアナスで多機能フルアナログに挑戦し、その技術をG-SHOCKにも応用していきました。今だから言える裏話ですが、2000年代に最初のアナログモジュールを設計できる設計者は社内に1人しかいなかったのです。そして、私自身もアナログに行くか、スポーツ分野に行くか、2つの選択肢で揺れていました。前者を選んだことが現在の状況につながったことを考えると、スポーツ分野の道を選んでいたら今頃は競合ひしめくスマートウオッチ市場で他社との差別化にもがいていたことでしょう。
実は、リーマンショック後の2010年以降に時計市場自体が伸びた時期があり、その時の需要の9割がアナログ時計だったということで、社員の方から自発的に改めてその市場に挑む提案が上がってきたことがありました。あの時は、かつて自分が考えていた方向性がしっかりチームに共有できていたのだと思いましたね。
「G-SHOCKは極めてコスパの良い防水時計だと思われていた」
WN:増田さんといえば“G-SHOCKの父”伊部さんと当時の社内デザイナーの二階堂さん(後に退社)と3名で、“Project Team Tough”を結成し、今日に至るG-SHOCKの礎を築かれました。ただ、完成はしたものの発売後しばらく日本では伸び悩んでいたと聞いたこともあります。それでもG-SHOCKが製造され続けた理由を教えてください。
増田氏:アメリカや南米で堅実に売れていたからです。売れた理由は、アイスホッケーのパック代わりにG-SHOCKを使ったテレビCMが全米で流れ、その実証テストなども放映された影響力が大きかったですね。それと、当時は防水時計が好調だったことも追い風になりました。なにせ1ドル240円とかの時代でしたから、39ドルで20気圧防水のG-SHOCKを販売していたのです。80年代は確か、海外で月に3万本は売れていたと記憶しています。だから生産中止にはならなかったのです。
その後、グラフィカルなモデルを発表するとG-SHOCKの支持層に変化が現れてきて、90年代には日本でもラスタカラーのモデルが1週間で完売したり、ラバーズコレクションのホワイトやイルクジのクリアカラーが盛り上がったりと、一気にG-SHOCKの“軸”が確立できたと考えています。
今後、カシオでは楽器や電卓など他の事業でもブランドという“点”を、“軸”へと発展させていけるかどうかが命運を分けるだろうと考えています。“軸”というのは先ほどもお伝えしたとおり新しい価値の創造であり、またそこを中心として人などが集まるような状態のイメージでもあります。
WN:一般的な成長曲線ではなく、縦に伸びながら円形にも広がるような立体的な成長イメージですね。
増田氏:そもそもG-SHOCKは例の3階のトイレで伊部さんに誘われて、私も関わることになった商品です。当時、カシオの商品化の流れは最初に新しい開発、技術ありきだったので、企画を担当していた私は川下の方でプロジェクトを管理することが主な業務でした。一方、G-SHOCKは開発、企画、デザイナーでしかも若手の3人が起点となる、まったく前例のない商品開発だったのでとてもやりがいがありました。それが最初に海外で認められ、ファッションやカルチャーに波及し、高価格帯へも進出するまで進化できたのはG-SHOCKに“軸”ができたからだと思います。
こうした“軸”はプロトレックやエディフィス、オシアナスといった各ブランドでも十分に構築できる可能性があります。もちろんコストのかかることなので、すべてを一度にはできないのですが、すでに一部の計画は進めています。
WN:売り手と買い手の関係を越えた新しい価値基準が、御社の製品やサービスから生まれる未来を楽しみにしています。最後に、本日着用されている腕時計を見せていただけますか?
増田氏:今日はオシアナスのOCW-S5000MEです。腕時計は“自分の相棒”だと考えているので、今の自分にはこのプラチナ蒔絵のオシアナスが相応しいだろうということで購入したモデルです。実は個人としてはあまり腕時計は持っていないのですよ。その代わり、新商品のモニタリングで数えきれないぐらい多くの腕時計を着けてきましたけどね(笑)。
取材後記
増田さんは取材後の雑談で、『1978年の入社から現在までの約45年は短かった』と筆者に語ってくれた。いくつもの難しい決断を下してきた増田さんは、本当にのんびり構えている時間などなかったに違いない。そしてこれからは社長として時計以外も見ていくことになり、よりいっそうタフな日々を送ることになるのだろう。インタビューの中では、いまだ漠然としたイメージではあるもののブランドの中に“軸”を作るというビジョンがあり、その社内共有を始めていることもわかった。
普段から多種多彩なブランドの腕時計の情報を収集している身からすると、カシオの腕時計はいずれのブランドも「デジタル&テクノロジー特化型」という点ですでにオンリーワンではある。アナログ表示の先駆けとなったオシアナスは日本の時計市場に10万円台以上の多機能アナログ電波時計という新たなジャンルを創出し、MR-Gは先進素材と伝統工芸の技術を融合させるなどの試みによって高価格帯での新たな顧客層を獲得してきた実績もある。
プロトレックやエディフィスのようなフィールド特化型にも、まだまだ発展の余地はあるだろう。だが、きっと増田氏の見据えているのはもっと先。それら製品、というよりはブランドが中心になるようなムーヴメントを定着、発展させていくことではないかと筆者は考えている。いずれにしても、時計専門メディアとしては時計業界が盛り上げていただきたいと願うばかり。これからの増田さんの手腕に期待したい。