【IBEゼミ/第1講】1981-1991 G-SHOCK誕生前夜。そして時計界の常識を覆す革新時計が直面した不遇の時代

伊部先生とIBEゼミ講師・スピード五郎

伝説はたった1行の企画書から始まった

こんにちは! IBEゼミ講師ナンバー「5600」のスピード五郎です。今日は伊部先生から、G-SHOCKの誕生秘話を聞かせてもらいます。伊部先生、準備はいいですか? えぇ、では、開発のきっかけからお話しください。

「えー、そもそものきっかけは、父からもらった大切な腕時計を、不注意で硬い床に落としてしまったことです。見事にバラバラになった姿を見て、『あぁ、腕時計って壊れてしまうものなんだなぁ』と、妙に感心したんですね。それで、月に1回会社に提出することになっていた時計や技術の企画募集に、“落としても壊れない丈夫な腕時計”という案を出したのです。ケースにゴムをペタペタ貼った絵を描くのも幼稚な気がして、文章1行になりました(笑)。本来なら通らない企画書なんですが、なぜか『やってみろ』と。大変なのはそれからでした。

まずは実験環境の確保です。1階トイレの窓から落としても壊れないのは当然で、3階から下を見たとき身震いするような感覚があったので、3階の窓から落としても壊れない時計を目標に決めました。次に時計ですが、最初は時計の上下左右4か所にゴムを付ければいい、と安易な考えでした。それが、やってみるとまったくダメ。使うゴムを増やしていくうち、ソフトボールほどの球体にしてようやくモジュールが壊れなくなりました。当時は薄型の腕時計が流行していたし、そもそもこれでは腕時計のサイズじゃないですよね」

このとき初めて“とんでもない提案をしてしまった”と伊部先生は後悔するわけですね。問題解決の糸口はあったのですか?

「モジュールを5段階にガードすると状況は前進しましたが、電子部品が1か所、必ず壊れる現象に陥ってしまいました。液晶を守ればコイルが切れ、コイルを守れば水晶が割れる。完全ないたちごっこです」

やがてモデル名が決まりました。3階から落ちる試作品を目にしたデザイナーが、「自由落下=重力(GRAVITY)」と連想し、強い重力、すなわち大きなGに耐える時計……そう、「G-SHOCK」というネーミングが完成したのです。でも、伊部先生が担当する外装設計は、完全に行き詰まっていました。

「いよいよ会社も待ってくれない状況だと感じたので、自分のなかで1週間と期限を決め、1日24時間考え続けることにしました。それで結果が出なかったらお詫びして責任を取ろうと。そう決意した月曜からの1週間は本当に辛かった。土曜の夜なんて『寝なければ朝が来ない』と、あり得ないことまで考えて(笑)。でも、結局は何も思いつかず、日曜に実験室を片づけるため休日出勤。昼食を食べて研究室の隣の公園で物思いにふけっていたら、マリ突きをしている女の子……。すると、ゴムマリの中にモジュール(時計の心臓部分)が見えたんです。“コレだ!”と思いましたね」

衝撃を吸収して、モジュールに伝えない構造。そのためにはモジュールを支える面積が少ないほどいい……。

「点接触です。ケース中でモジュールは点で支えられ、浮遊状態になるのです」

起死回生のアイデアを取り入れた試作品は、見事に3階からの自由落下にも耐えることができたのです。

 

 

G-SHOCKの凄さを最初に見抜いたのはアメリカ人だった

 

1983年4月、ついに初代モデルが発売されました。モノ雑誌がバイクにG-SHOCKを取りつけたり、ソフトボールを割って中に埋め込み、バットで打つ耐久テストまで行ったと聞いています。でも、一部で話題になったものの、ユーザーの反応は少なかったとか。伊部先生、本当ですか?

「はい。実は発売から10年近く、G-SHOCKはほとんど売れなかったのです。私が設計から商品企画に移動した後も、よく続いているなと思いましたよ。普通ならとっくに製造が中止される実績でしたからね。これはもう、製品の可能性を信じてくれたすべての人たちのおかげ。皆さんには感謝するしかありません」

G-SHOCKの実用性を最初に認めたのは、実は日本人ではなくアメリカ人。タフでリーズナブルな設定が、彼らの合理性にマッチし、徐々に認知度を高めていったのです。

「決定的だったのが、1984年に全米で放映されたテレビCMです。アイスホッケー選手がパックの代わりにDW-5200Cを強烈にシュートする映像です。でも、アメリカの現地販売会社が製作したこのCMに、“誇大広告ではないか”と消費者団体が咬みつきました。その騒動を聞きつけた全米ネットのニュース番組がCMシーンを再現する実験を生放送。結果、やはりG-SHOCKは映像通りにビクともしませんでした。この偶然の騒動が、逆に信頼性を高め、全米でG-SHOCK旋風を巻き起こすことになったのです。

一方、国内では一般的にほとんど認知されず、年間出荷数はわずか1万個前後でした。その転機となったのが、1990年に海外で発売されたDW-5900C。斬新なデザインが米国西海岸のスケーターに受け入れられました。彼らのライフスタイルが国内ファッション誌で紹介されると、日本でも人気に火が付きます。1991年に勃発した湾岸戦争の米軍兵士やミュージシャンのスティングが装着したエピソードも紹介され、G-SHOCK人気はさらに拡大していったのです」

 

 

 

1984年、誇大広告ではないかと疑われたテレビCM。走り込んできたプレーヤーが、強烈にシュートを放ったのは、パックではなくG-SHOCK。キーパーが見事にキャッチしたグローブの中で、DW-5200Cは何事もなかったかのように時を刻んでいる……というタフさをアピールする内容でした。

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伊部菊雄
1976年カシオ計算機入社。最初に配属された技術部・外装設計で耐衝撃構造を生み出す。近年は、製品哲学の伝道師として世界中でプレゼンを行う一方、独自企画も手がける