40年キャリアの時計セールスマン・傍島昭雄の【辿れば・時計自慢】<Vol.01 ヒノキ新薬代表取締役社長・阿部武彦さん>

1970年代から約40年にわたりスイス時計の営業として活動し、あらゆるブランドの日本展開の裏側を知る傍島氏による新連載。時計販売を通じて付き合いが始まった顧客との再会と、そこから呼び起こされる記憶を綴る。

TEXT/傍島昭雄

(1)時計の果たす役割とは。

阿部さんは「特に時計が好き」というわけではない。従って。コレクターでもない。でも、そうはいっても「いいもの」を持っています。

彼の持っている人間性が、読者の皆様のこれからの時計を考えるのに大いに役立つと思います。さて、もう皆さんはお気づきだと思いますが、国によって、或いは地域によって時計の呼び方が違いますね。

英語は「WATCH」で、フランス語は「Montre」。意味は、前者が“見る”に対し、後者は“見せる”という意味もあるそうです。時計を腕に着けて「どうだ、良いだろう」と、見せびらかすくらいはしてもいいのではないでしょうか。我々日本人はうちに籠る人が多いように思います。

(2)阿部さんの若い頃

大学を出て数年は船会社に勤務、来る日も来る日も青い海を見つめていると、募るヨーロッパへの思いが顔に出た。父上が決断し、約5年に及ぶドイツの生活が始まった。ギリギリの生活であったとのこと。体力は大学時代に水球部にいてキャプテンを務め全国大会で優勝するという快挙を経験したこともあり、心肺丈夫である。

父君の健康状態が不安視されたので5年に及ぶヨーロッパでの生活を終えて帰国。と同時に、父親の経営する会社に入社、今日に至る。このストーリーを聞いて、筆者も度胸があれば、海外で活きたのに。どうして、行かなかったのだろう?

(3)阿部さんと出会う

9月にお目にかかる機会があったので色々お尋ねした。また 逆に聞かれたこともあった。まずは同席した編集長が阿部さんにたずねる。「傍島氏とはどういうことで知り合ったのですか」。「う~ん、覚えてないなー、どうして知ったのだろう、あなたは覚えていますか」と、阿部さんはわたしに聞いてきた。

「もちろんです、ブレゲの日本で代理店が代わった年です。ブレゲの新事業部長のガニュバンさんがウイーンのブレゲ ブティックから連絡を受けた、と。その内容が『阿部さんがブレゲの事をもっと知りたい』ということで、後日、展示会にお招きしたのですがガニュバンさんの手が空かず、わたしに阿部さんの案内を任されたんです。そこでブランパンの説明もしっかりとしました」

「そういえば私の若い頃。こんな標語があった、が、どうですか。【諏訪をアジアのスイスに】は実現したのかな」

また意見として「近頃の時計は大きすぎるあれじゃぁ、Yシャツの袖を壊してしまう」 「時計は手巻きだね。ゼンマイをまきあげる時、全身に力がみなぎり、さ、やるぞと気にさせてくれる」 「今の日本に欠けているのは教育だね。もっと科学に力を入れなくては。その証として国も1000円札に津田塾の創始者のポートレートをだしている」

(4)阿部さんの「余技」

色々な分野に結果を出している阿部さんだが、何といても先ず「一文の会」を紹介したい。三文オペラという小説があるが、当時、天井桟敷が3文=1000円位かな。我々の歌にそこまではだしてくれないだろう。では、1文ならば、ということで名前となったようだ。

メンバーが凄い。元外交官、元銀行のトップ、女優,近隣に住む駐日大使夫妻など。最盛期は10数人が集まりピアノ伴奏で歌いプロの講師の講評を仰ぐ。阿部さんは会を纏め、また、彼も歌う (中でも「Granada」は絶品です)。コロナ過を通じて活動が縮小されている様子、それとメンバーの高齢化の成せる運命か。

 

話しは変わります。

ある年、阿部さんはミュンヘンからスイスのジュラ山地にあるルブラッシユに車で訪ねた。ブランパンの工房をみる為に、自ら車を運転して来たそうだ。古い農家を改造した建物を見ると、古さを感じさせない。中に入ると、時計職人が黙々と作業をしている、まるで時が止まっている感覚におそわれた。

阿部さんはスキーも達者だ。自分が満足できるコースは日本にはないと言い、北海道の南部にあるルツスに研修所をたてた。そして周辺を知人たちにも勧め、異質な人たちが、混ざらないように配慮した。でもどうかな、外国の方々が狙っているのではないか。

そしてスキー場だが、阿部さんの援護もあって、トップクラスの評価を得ているそうだ。この研修所は50年前に高名な建築家の手によって建てられ、このほど道の文化財となった。

 

ちょっと時計業界に一言。「本当に今の時計は 厚い』 重い』 大きい』。あれじゃぁYシャツの袖が一発でやられてしまう」

阿部さんの手にある時計の数は、私が考えていたよりも多いかもしれない。ブランパン、パテック フィリップ、 オーデマ ピゲ、ブレゲ、ジャガー・ルクルト、コルム、オメガ といったところか。一昨年、阿部さんの会社は創立65を迎えた。記念のパーティで阿部さんの挨拶の時、それは語られた。

「折角、技術を覚えたのに 65歳で一丁上りはないだろう。もう10年延長』それを聞いた会場はどよめいた。

 

【阿部武彦氏プロフィール】

東京都千代田区に本拠地を置く 「ヒノキ新薬株式会社」代表取締役社長。1976年の社長就任。ヒノキ新薬は、ヒノキチオール(1936年に野副鐵男博⼠が発見)を配合したスキンケア製品を中心に扱っており、同社では化粧品と呼ばず「肌粧品(きしょうひん)」と名付けている。1956年の創業以来、素肌本来の持つ機能に着目し、研究開発を行っている。

【書き手・傍島昭雄】

1950年岐阜県生まれ。1975年日本シイベルへグナー入社後、ヴァシュロン・コンスタンタン、ブレゲ等を担当。1993年よりSMHジャパンに入社し、日本におけるブランパンの地位確立に貢献。2007年にボヴェ ジャパン代表取締役に就任。同社のWatchmaking Artの世界を高級時計愛好家に広め、売上を拡大するなど、40年以上にわたり時計の発展に尽力してきた。現在、パーキンソン闘病中