【時計界の偉人列伝】前衛的デザインで高い評価を得た“時計界のピカソ”――ジェラルド・ジェンタ
ジェラルド・ジェンタ(1931年-2011年)は、ジュネーブに生まれ、時計デザイナーとして活躍。1969年にオフィスを設立し、躍動感に溢れる前衛的なデザインを一流ブランドに提供しました。1978年に自らの名を冠したブランドも創業した、時計史に名を残す偉人です。
スイスのトップブランドにデザイン革命を起こす
イタリア人移民の父とスイス人の母のもと、スイスのジュネーブに生まれたジェラルド・ジェンタ。家庭は極めて貧しく、また第2次大戦中には通っていた中学校でイタリア嫌いの教師からイジメを受けるなど、逃げ場のない状況だった、とのちに彼自身が告白しています。
そんななか、ジェンタの唯一の居場所となったのが、思う存分に絵を描くことができる、自分だけの秘密の場所。幼少の頃から絵が大好きで、なかでも絵画を描く能力は非凡なものがありました。
15歳のときに宝石職人としての成功を夢見るようになりますが、弟子入りした工房の師匠と衝突して挫折。次に彼が目をつけたのが、世界でもスイスが圧倒的に強い産業=時計のデザインでした。時計技術の知識がないまま、いきなり“時計デザイナー”としてメーカーに売り込みに回るあたりが、実にジェンタらしいエピソードです。当然、契約してくれるブランドはありませんでしたが、日々腕時計の絵を描き続けていくうち、次第に自らの才能を確信するようになっていきます。
20代半ば、努力がついに実を結び、ユニバーサル・ジュネーブで「ポールルーター」を手掛けました。1964年には、オメガの「コンステレーションCライン」をデザインします。2つのCが向かい合うかのように丸みを帯びた立体的なケース形状は、変わり映えしない当時の時計界へのジェンタ流のアンチテーゼだったともいえるでしょう。このCラインケースは、その後、シーマスターやスピードマスター オートマティックにも応用され、さらには他ブランドにも影響が波及。1970~80年代の一大トレンドとなります。この成功を受けて、1969年、ついに自身のオフィス「ジェラルド・ジェンタ」を設立するのでした。
一国一城の主となって最初の大仕事に、ジェンタはすべての情熱と才能を注ぎ込みました。そして完成したのが、世界的に知られるオーデマ ピゲの「ロイヤル オーク」です。当時の高級時計といえばゴールドウオッチというのが常識でしたが、このモデルはSS(ステンレススチール)を使った史上初の高級スポーツウオッチとなりました。デザイン的にも斬新で、英国軍艦ロイヤル オーク号の舷窓をモチーフに、常識を覆す八角形ベゼルを採用。しかも8つのネジをあえて見せたのです。また、ケース一体型のブレスには、コマのサイズを連続的に小さくしていくアイデアを使って、フィット感に優れた独自の装着感を実現しました。
もともと興味のあった舷窓のフォルムが僕の想像力を駆り立てた
その4年後には、パテック フィリップの「ノーチラス」をデザインしました。潜水艦ノーチラス号をモチーフに、やはり舷窓に着想した八角形ベゼルながら、より丸みを持たせた形状に仕上げたのです。また、ケース左右のヒンジ部分でベゼルをねじ留めするなど手の込んだ作りとし、ロイヤル オークのデザインをさらに進化させた作品といえます。
この時代、ジェンタは凄まじい創作意欲を見せました。ノーチラス発表と同じ1976年にはIWCの「インヂュニアSL」があり、ブルガリの「ブルガリ・ブルガリ」や、カルティエの「パシャ」、1979年発表のクレドール「ロコモティブ」もジェンタが手がけたもの。一方、自身のブランドでは芸術性豊かなハイエンドウオッチを輩出。また他方では、ディズニーと版権契約を結んで、ミッキーマウスが時間を指さしたり、ゴルフをしたりする、超高級キャラウオッチも手掛け、人気を博しました。
いつしかジェンタは、“時計界のピカソ”と呼ばれるまでに、輝かしい時代を築きました。1998年に自身のブランドをあっさり去り、画家として数年間を過ごします。ですが、2002年にはセカンドネームに由来する「ジェラルド・チャールズ」を立ち上げて、時計界に復帰。2006年にはバーゼルワールドにも帰ってきました。しかし、日本での正規扱いが立ち消え、2008年以降、仕事の噂を聞かなくなった……と思っていた矢先、突然の訃報が飛び込んだのです。2011年8月17日、偉大な時計デザイナーはこの世を去りました。ですが、彼の遺した天才的デザインは、これからも永遠の時を刻み続けるのです。