創業1872年。大阪ミナミにあるやぶ内時計舗は明治5年に時計商を営み始めてから、今年で150周年を迎える。5代目の藪内正己さんに、一世紀半もの歴史を紡いできた「街の時計店」の歩みを聞く。前編では、創業背景から高度経済成長期までの歴史を振り返ってもらった。
Text / Daisuke Suito Photo / Atsuyuki Shimada
奈良の糸屋から大阪の時計商へ
「先祖は武士の家系だったと聞いています。そこから江戸時代後期に出家して奈良で寺の住職になった者がおり、二代目の弥太郎が還俗(げんぞく)。姓を藪内に改め、奈良から大阪へ絹糸を売りに行った糸屋が商売のはじまりだそうです。その弥太郎の息子が当店の初代・政七で、初代は奈良特産の絹糸を売るだけではなく、川口に入港していた貿易船と絹糸を交換して得た時計を売り捌いていたと言います。これが藪内家と時計の最初の接点ですね。やがて先に時計商を営まれていた石原時計店の方のすすめがあり、時計店に転換。1872年、船場に店を出すことになったと。まだ柱時計か提げ時計(=懐中時計)の時代の話です」
明治初期の川口には、いまも教会や居留地の碑が残っており貿易の窓口となっていたことがわかる。そうした流れもあり、藪内家は政七の頃から代々クリスチャンだという。後述するが、この背景がのちにやぶ内時計舗の名を全国に広めた3代目の見聞を広めることとなる。
「明治時代の始めは、まだ自社で時計を製造する前の服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)にも時計を卸していたそうです。小売業に注力し始めたのは、明治時代の終わりから。1902年(明治35年)に博労町に店を移したと聞いています。卸業と小売、そして当時としては目新しいカタログ販売を企画し、中国、四国、九州にも通信販売の元祖として販路を広げたそうです。いまの店舗の地下に降りる階段脇にアメリカ製の電動レジスターを置いていますが、あれもかつての博労町の店舗の時代から2000年代まで実際に使っていたんですよ。最終的にレシートを出す紙がなくなって、使わなくなりましたけどね(笑)」
明治から大正へと時代が移り変わるのと同じくして時計の卸から小売へと業態を変えながら、やぶ内時計舗は2代目の長蔵の時代を経て順調に商売を続ける。大正時代から作られるようになった国産時計の取り扱いを開始。同時期に「婦人用腕時計に絹製で止め金具付きの色リボンバンド(1本十銭位)を取り付けて売り出し、大変好評を得た」(『藪内正信一代記』より)というのは、商魂の逞しさが伝わるエピソードである。そして話題は、昭和から100年企業にとって切り離すことができない第二次世界大戦へ–。
大戦からの復興
「私の祖父である3代目の正信は、1928年(昭和3年)23歳の頃に祖父の勧めもあってアメリカ大陸を横断する外遊に出たそうです。目的は、その年にロサンゼルスで開催された世界キリスト教年次大会に参加するためでした。船で往復1か月、アメリカで2か月を過ごす経験が、人生観を変えたのでしょう。3代目は、その半生を商売よりも組合の運営の方へ注力しました。大阪時計眼鏡宝飾商業協同組合の役職のほか、数々の公職で重役を歴任。津々浦々、全国の時計店に正しく商品が行き渡るよう尽力した功績が認められ、昭和58年には勲四等瑞宝章を授かっています。私が店に入ったときには、業界の会合などで『おじいさんにはお世話になったよ』と、複数の企業の会長や重役の方に声をかけていただきました」
「祖父は戦後の昭和22年から代表取締役になりましたが、実際は石原時計店無くしていまのやぶ内時計舗はなかったでしょう。石原さんは戦前より『大阪時計製造』という名で時計を製造していました。金属加工ができるなどの理由から、戦時中は御多分に洩れず軍需工場となっていたのですが、そこの工場長として祖父を迎えていただいたのです。おかげで徴兵を免れ、戦地に赴くことなく終戦を迎えることができました。ただ、空襲の被害が甚大なことに変わりはなく、資料一式をまとめて疎開先に送る前日に大阪大空襲に遭い、それらすべてが戦火に消えてしまいました。戦前のもので残っているのはアメリカ製の大きなレジスターと、ウォルサム製の柱時計だけ。だから、これまでお話ししたことのほとんどは父や祖父から聞いた話です。戦争に関しては『こんな最新鋭の機械(レジスターのこと)を作るような国に日本が勝てるわけがない』と祖父が語っていたとか。戦前からアメリカを知っていた祖父らしいな、と思いますね」
焼け野原となった街に店舗の痕跡を見つけて土地を守り、すぐに時計商も再開。あらゆるルートでかき集めたという国内外の時計は、よく売れたそうだ。この頃よりセイコーの時計を卸していた栄光時計をはじめ、シイベルヘグナーやリーベルマンなど舶来時計を扱う商社との関係が築かれたという。
「商社と付き合いはありましたが、戦後の商材は主に国産時計だったようです。とくに高度経済成長期は飛ぶように売れたそうで、当時の人気モデルだったセイコーの5スポーツやダイバーは、一つの箱に5つ入った納品状態のままでまとめ買い、なんていうこともざらだったとか。大阪万博のときには、日本の時計を販売する店舗として出展していたり。景気の良い話ですよね(笑)。クオーツウオッチが出てきた1970年代以降、時計の単価は徐々に下がっていくのですが、代わりに本数が出るようになったことと安売りもしなかったことが店の支えになりました。
この頃には、のちに4代目となる私の父、正明も先陣を切って店を切り盛りしていて、ロレックスやオメガなどの舶来メーカーや近隣店舗と協力してポスター掲示やテレビCMを展開するなど、さまざまな拡販の取り組みを行い好評を得たと聞いています。心斎橋界隈はすでに時計の小売店が十分にあるだけでなく、3代目の貢献もあって良好な関係が築けており、また同業者の新規参入が少なかったという環境も良かったと思います。もちろんディスカウンターや並行輸入店が現れ、カジュアルウオッチを扱うお店の入ったショッピングモールもできましたが、それぞれの特徴を活かして共存していたようです」
価格競争とは一線を画す
機械式からクオーツ式になり、時計の安売り競争が各地で繰り広げられるなか、4代目はとある選択を迫られたという。このエピソードがまた興味深い。
「安価な時計が仕入れれば売れるような時代にあって、父は国産時計の中でも長嶋茂雄さんら著名人が愛用していた高級時計『クレドール』の販売を進めていきました。
あのとき低価格路線の道を進んでいたら、価格競争の渦の泡と消えていたかもしれませんね。実際、1980年代からブランパンほかスイスの高級時計の価値が見直され、独立時計師が注目を集めるようになると、機械式時計の蒐集や研究を趣味にする人が増えたのですから。当時、父が『今日はロレックスが5本も売れた』と喜んでいたことがありましたが、幼い私は『5本売れただけで何がそんな嬉しいのか』不思議に思ったものです。でも、よく考えたら薄利多売の価格競争の中にあって、ロレックスが定価で5本も売れるのはすごいこと。そして、昔も今も本当に良いお客様に恵まれていると思いますね」
【やぶ内時計舗】
住所:大阪府大阪市中央区博労町4-3-12
TEL:06-6253-6110(代) 営業時間:午前11時~午後8時(定休日:水曜日)
https://www.yabuuchi.co.jp/
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