2泊3日の強行スケジュールでスイスから来日し、スイス大使館で行われたフェアウェル・レセプションを終えたスイス時計協会FHプレジデントのジャン・ダニエル・パッシュ氏をインタビュー。スイス時計協会の海外拠点は香港と日本の2箇所のみで、香港は9月に同様の旅程で渡航。日本へはコロナ禍前の2019年、スイスの経済担当大臣に同行する形で訪日して以来になるという。
2024年は日本とスイスの国交樹立160周年
–2024年に日本とスイスは国交樹立160周年という節目を迎えます。スイス時計業界を代表してコメントをいただけますか?
「スイス時計業界にとって日本はつねに重要な市場でした。そうした良好な関係が両国にあったからこそ、FHが日本に支局を開設したという経緯があります。日本もまた、時計産業の盛んな国だと私は認識しています。生産者がいるのはもちろん、消費者の時計に対する関心も高いですよね。スイス時計業界というのは、日本市場で積極的に活動しているわけです。日本にはたくさんのスイスブランドがありますし、反対に日本の方がスイスに旅行に来られた際に時計を購入して帰国されることも多いという話も聞いています。今はコロナ禍を経て少し落ち着いていますが、やがて以前のような交流が戻ってくるでしょう。スイス時計業界において、日本は4番目の市場規模となっています。」(以降、「」内はすべてパッシュ氏のコメント)
–1、2、3番目は北米、中国、香港ということになりますか?
「そうですね。その順番であっています。日本のあとには、イギリスとシンガポールが続きます。タイミングにより順位の変動はありますが、私の30年のキャリアのなかで日本が1番目になったことはなかったと記憶しています。」
–現在、あらゆる要因が重なり腕時計の定価が高騰し続けています。これに歯止めが効かなくなると、人々の時計離れが進むのではないかと私たちは懸念しています。こうした価格高騰と時計離れへの危惧について、FHとして対策を講じることはないのでしょうか?
「いま世界で起きているインフレ、為替、紛争、その他の問題については私たちがどうにかできることではありません。一方で、業界としてお客様に魅力的な商品をお届けするための努力は絶え間なく続けていく必要があります。協会で把握している限り、対日の時計の輸出が下がってはおらず、売り上げについても増加傾向が続いているという統計も出ています。ただ、これに甘んじることなく状況の変化については、これからも注意を払っていく必要があるでしょう。時計の価格については、ご存知のように多くのブランドがありますし、価格設定はそうしたブランドが各々で行うもの。それぞれが企業として存続し、発展していくために必要な条件に則った価格設定ですから、協会が口を挟むことではありません。ラグジュアリー部門はその他の消費財とは異なる傾向にあると考えています。困難な時代にあっても成長を続けられる可能性があるのです。」
–ラグジュアリー部門という認識について、私は時計メディアに関わって20年ほどなのですが、駆け出しの頃は今ほど腕時計はラグジュアリー色が強くなかったように思います。パッシュさんも30年のキャリアの中でスイス時計の価値が変わったと思われますか。
「そうですね。これまでの経験を振り返ってみると、今は腕時計がラグジュアリー部門に進出している時期ではないでしょうか。そう考える要因はいくつかあると思います。一つ目はより高価格帯の製品を推進していくポリシーを持ったブランドが増えたこと。もう一つとして、フランスやイタリアなどの海外ブランドが時計業界に参入してきたことが挙げられます。現在、腕時計を買う人の多くは時刻を示すという実用性よりも、それ自体の美しさや夢、価値観を腕時計に求めているのではないでしょうか。こうした背景はありながらも、時計メーカーは幅広い価格帯の製品を手がけていく必要性はあるだろうと考えています。」
–やはり時計の価値観は変わってきているわけですね。
「はい。オークションでも腕時計は注目を集めるジャンルになりましたよね。タイムピースは投資対象としても世界的に注目を集めるアイテムになったと思います。」
–投資対象ということで言うと、日本では最初から転売する目的での新品を購入する人々がいます。こうした行為についてはどう思いますか?
「すいません。転売の何が問題なのか、質問の意図がわかりません。売り手と買い手のお互いがいて、価格面で合意があり、取引が成立する。そこで価格の高騰や下落があることも含め、市場の原理。消費者の方が納得して行う取引ですから、そこに協会の出る必要はありません。転売が問題というのであれば、各ブランドが一貫性を持った販売方法を担保、策定、維持していくことが重要なのではないでしょうか。価格があまりにも不適正な水準に到達するようならば、業界的に調整を試みる可能性はあるかもしれません。ただ、やはり正規定価の5倍の値段を出してでも購入したいという人がいる以上、買うか買わないかはその人の判断次第。絵画や彫刻のような芸術作品でも同じようなことが言えますよね。」
–ストレートにお伝えすると、新品のロレックスを購入したその足で買取店に持ち込む人がいるわけです。確かに市場の原理といえばそれまでなので、日本が少し特殊なのかもしれませんね。
「スイスには日本のような新品中古を扱うような店舗がほぼありませんし、違和感のある販売方法についてはある程度ブランド側でコントロールできます。時計店のすぐ近くに本社があるわけですし、業界内のネットワークもありますから日本のような状況が起こりにくい、というのはあるかもしれません。」
–こうした市場が成り立つのも、スイス時計、高級時計の価値を多くの人が認めているからでしょうね。とはいえ、先ほどもあったコロナ禍の影響やリーマンショックでスイス時計産業も大きなダメージを受けました。そこから再び成長曲線につながっていくスイス時計産業の逆境を乗り越える力、“レジリエンス”の源となっているものとはなんでしょうか?
「確かに時計産業は多くのアップダウンを経験してきました。ラグジュアリー部門は、とくにこうしたアップダウンの影響を受けやすいかもしれません。ダウンのときは急速に落ち込みますが、アップのときも同じようなスピード感で回復していく傾向があります。ではなぜ、急速なV字が描けるのかというと、スイス時計産業は人材確保の重要性を理解しているからだと思います。優秀な人材が内に留まっていれば、景気が上向いたときにすぐ必要な生産体制を構築できるわけです。なによりスイス時計産業は400年に及ぶ歴史を生き抜いてきたという自信もあります。たとえば今回のコロナ禍では、世界中で企業の責任とは関係のない要因にもかかわらず、従業員の雇用が脅かされましたよね。このとき、スイスの企業は雇用保険を利用して従業員に給与を支払うことで優秀な人材を自社に留めることができました。期間が決まっていたり、申請の手間はありますがこうした公的な支援もまたレジリエンスの一端を担っていると言えるでしょう。一方で、業界としては社会的な変化に適応していく柔軟性は必要だと思います。コロナ禍で店頭販売ができない状況でeコマースのような新たな体制構築が各社で急速に進んだように、時代に合わせて変化していくことは重要だと思います。
–優秀な人材の確保と関連して、ウオッチメーカーの人材不足が問題になっていると聞いたことがあります。こうしたスイス時計業界の問題点について、協会が把握していることがあれば教えてください。
「おっしゃる通り人材不足は問題になっています。これは時計業界だけでなくスイス経済全体の課題です。各企業が自助努力で、それぞれに若い人を惹きつける魅力を発信していくことが求められています。時計業界に関していうと、積極的に若い人たちに時計業界での経験を積める環境を整えるよう努力しています。フランスやドイツなど、国外からの人材も採用していますが十分といえる状況ではありません。引き続き時計業界で働きたいと思う人が増えるための環境整備と情報発信を続けていく必要がありますね」
–最後にパッシュさんのFHでの30年のキャリア、とくに会長就任の20年間でとくに思い出に残っているエピソードなどあればお聞かせください。
「たくさんありすぎてとても選べません(笑)。スイス時計産業を代表する立場となれたことは、本当に光栄です。この職を通じてスイス国内だけでなく、国外のブランドや業界団体とも関係を築き、交流できたことはありがたい経験でした。各大臣とご一緒に行動するとき、私がスイス時計業界の代表だとお伝えするとみなさん本当に嬉しそうに接してくださるんです。ご自身の時計のことや、自国での時計事情などを話してくださった方々との日々が懐かしいですね。そうしたコミュニケーションがあるたびにスイス時計が評価されていることを感じることができました。本当にあっという間でしたね。」
取材後記
取材中にも触れたが筆者の20年弱の仕事経験において、腕時計の役割は確実に変化していったと最近特に強く感じている。関わり始めた頃から趣味性の強いアイテムではあったものの、ここまでラグジュアリーに寄ったブランドは多くなかったように思うのだ。パッシュ氏の言うように、これもまた時代に応じた柔軟な変化なのかもしれない。一方でラグジュアリーに振り切れないブランドは、今後どのように立ち振る舞えばよいのか。残念ながら筆者には明確な答えを提示することはできないが、やはり消費者の心を掴む商品の開発や話題作りに引き続き励むしかないのだろう。
機械式時計は“ぜんまい仕掛け”という超アナログな仕組みゆえにフルオートメーション化が難しく、大量生産品であっても熟練工の手作業に頼る工程が少なくない。加えて、最先端技術や高級素材、熟練工の職人技の限りを尽くして作り出すこともできるため、採算を度外視すれば天井知らずの高額品が生まれることもある。そのような超高額腕時計もまた需要がある限り供給は続き、どのような価格でも売り手と買い手の双方が合意すれば取引は成立する。スイス時計協会FHは1982年に現体制になって以降、そうした市場原理を見つめながら活動し、統計にまとめ、市場を分析し続けてきた。今回の取材を通じてパッシュ氏は国交樹立160周年に絡めた親日的な発言こそあったものの、それ以外はつねに中立的な立場でのコメントを貫いていたように思う。1本の腕時計を作るためにどれほど多くの人が関わっているか。それを知る人物ならではの平等性への配慮とともに、改めてスイス時計産業を代表する立場の難しさを感じる取材となった。
TEXT/Daisuke Suito(WATCHNAVI)
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