単色の琺瑯(ほうろう)ダイアルとエナメルを識別して愛でる鑑賞眼を持つ「日本人」
エナメル文字盤の秀作ラッシュが続いています。ところで、七宝焼とホーローとエナメルの違い、説明できるでしょうか。時計の文字盤に使われる限り、基本的にはすべて同じエナメルの仲間です。ただし呼び方の問題だけでなく、同じテクニックをどう「受容」するのかという点で考えると話は違ってきます。
金属などの表面にガラス質の装飾的な仕上げを施す技術は、そもそも現在の中近東が発祥です。それが日本にシルクロード経由で美術品として渡来し、正倉院御物としても遺されています。これが日本人にとって七宝焼の原風景なのであって、現代のスイス時計で駆使されるクロワゾネやプリカジュール等の華麗なエナメルを受容し、評価する素地にもなっています。一方で国産の腕時計では“琺瑯(ほうろう)”の名で高級腕時計の文字盤が製造されてきた歴史があり、伝統の工芸であるともいえるでしょう。だから日本人は、単色の琺瑯ダイアルとエナメルを識別して、愛でる鑑賞眼を持っているのです。
一方、そのエナメルという言葉にも揺らぎがあって、焼成しないエナメルもあります。要は女性のマニキュア=ネイルエナメルのように、エナメル風のテクスチュアを持つエナメルペイントということです。こうした様々な用語の定義のズレと、言語間の意味の差異のこともあって、最近では「グラン・フー」という呼び方が使われることが多くなってきました。
フランス語で、グラン(大きな)フー(火)、という意味ですが、英語のメディアでももはや一般的です。エナメルペイントと区別するのに便利だからでしょう。ただし「グラン・フー」は、そもそもジュネーブ時計等で有名な、“高温焼成エナメル”の技法の名前でもあります。つまりジュネーブは、時計造りが盛んになる前から、エナメル技法を用いた装飾品造りで高いクオリティを持っていたわけです。
つまり、時計よりも、エナメルが先。懐中時計の時代のジュネーブ時計は、文字盤というよりはむしろケースや裏蓋に、人物の細密画や花などのモチーフを描いたエナメル装飾を施すことが普通でした。クロワゾネ等の技法を文字盤に使うことが珍しくなくなったのは、腕時計の時代、それも近年のことなのです。
一般的に「グラン・フー」は800℃以上で焼成する、といわれていますが、正確な温度域の定義は曖昧です。その証拠に、対をなすはずの「プチ・フー」という言葉を聞いたことはないですよね。技法が完成した頃には、超高温の計測手段もなかったはずです。ただしクリアで深い色を出すためには相当の高温が必要である、というのは、絶対的な経験則でした。むしろ「グラン・フー」という言葉には、定義できない領域で超絶技巧を駆使し、それを伝承してきた職人たちへの賛辞を、多分に含んでいる気がするのです。
並木浩一
桐蔭横浜大学教授、博士(学術)、京都造形芸術大学大学院博士課程修了。著書『男はなぜ腕時計にこだわるのか』(講談社)、『腕時計一生もの』(光文社)、近著に『腕時計のこだわり』(ソフトバンク新書)がある。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・学習院さくらアカデミーでは、一般受講可能な時計の文化論講座を講義する。
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