【時計界の偉人列伝】時計の進化を2世紀早めた天才時計師――アブラアン- ルイ・ブレゲ

アブラアン-ルイ・ブレゲ(1747年-1823年)はスイスで生まれ、時計職人としての人生の大半をパリで過ごしました。数々の発明により、「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも称される偉人です。

 

王妃もブレゲも亡くなった後に完成した「NO.160」

(左)アブラアン- ルイ・ブレゲ
(右)ブレゲ トラディション 7057

1747年、スイスのヌシャテルで生まれたアブラアン-ルイ・ブレゲは、母親の再婚相手が時計師だったことが縁で、一般の学校 を退学し、15歳でパリ・ヴェルサイユの時計職人に弟子入りします。

めきめきと力をつけていったブレゲは、1775年にブルジョワ出身のセシルと結婚。その持参金をもとに、時計工房が集まるシテ島に工房を開きます。そして最初に成し遂げた偉業が、自動巻き機構「ペルペチュエル」の実用化でした。

ブレゲの名は一躍世に広まり、フランス王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットにも謁見。ゴング式リピーターを開発して納めると、美しい音色が王妃を魅了し、新たな懐中時計の注文を受けます。

「いろんな複雑機構がいっぱい詰まった、どの時計よりも美しい懐中時計を私に作っておくれ。お金も納期も気にしなくていいから」。こうしてブレゲのライフワークとなる「NO.160」の開発がスタートしました。のちに「マリー・アントワ ネット」と呼ばれる超複雑時計です。

1787年に製作が開始され、1794年に完成した「NO.5」。錘の振動でゼンマイを巻き上げる独創的な「ペルペチュエル」機構も搭載していた

ブレゲといえば、時計機構の発明ばかりが注目されがちですが、デザイン面でも実績は多いのです。1783年に考案したブレゲ針をはじめ、ブレゲ数字、コインエッジ、1786年のギョシェ彫りなど、時計が単なる宝飾品ではなく、芸術的作品としての価値を高める努力を続けました。

しかし、時代の大きなうねりが、ブレゲの運命を翻弄します。それは1789年、バスティーユ牢獄襲撃に端 を発するフランス革命でした。

 

もっとも優れた機能を備え、 もっとも美しい時計を作らねば…

王妃マリー・アントワネットからの“最高の時計”とのオーダーで製作を開始。1793年の王妃処刑後、1815年にひとまず完成を見るが、ブレゲの死後も弟子たちが受け継ぎ、1827年に完成した

戦火の中でも1791年、ブレゲはイクエーション・オブ・タイム(均時差表示)を考案。新機構の発明に没頭していたある日、幽閉されていたアントワネットからの使者が訪れます。最初に納めたリピーターが王宮襲撃の際に奪われ、新しい時計を注文したい、とのことでした。こうして、ブレゲはシンプルなリピーターを作り上げました。その音色は、囚われの身となった王妃をどれほど癒したことでしょうか。

ルイ16世が処刑された1793年、ブレゲはとうとうスイスへの帰国を余儀なくされます。そして同年秋、王妃アントワネットが断頭台で処刑されたニュースを知ります。ユグノー(改革派教会)の血を引くブレゲにとって、貴族の贅沢な生活は反感の対象でした。しかし同時に、大切な顧客でもあったのです。

そんな矛盾に満ちた貴族との関係を象徴するのが、王妃マリー・アントワネットとの交流だったに違いありません。王妃の死に涙しながら、ブレゲは誓います。「約束した“最高の時計”は、必ず完成してみせます」と。「NO.160」に組み込むことを最終目標に、ブレゲは故郷のスイ スで次々と新機構を考案していきました。重力の影響を均等化して精度安定を図るトゥールビヨン、姿勢差の少ないブレゲヒゲ、永久カレンダー、レバー式シリンダー脱進機など、膨大な発明は機械式時計の原理の約%70にものぼるといわれます。

2年間のスイス生活を経て、1795年にブレゲは再びパリの地へ。1802年には「NO.160」も一応の完成を迎えました。ですが、その後も新しい機構を発明するたびに、改良を加えました。「自分の生涯のすべてを、この一個の懐中時計に注ぎたい」。王妃との思い出は熱い情熱となってブレゲを突き動かし、その遺志は息子や弟子に受け継がれました。そして「NO.160」が完成へと至ったのは1827年。ブレゲが76歳で亡くなった、4年後のことでした。

 

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