日本とスイスの国交樹立160周年を記念し、日本におけるスイス時計の市場開拓の歴史を振り返る

2024年は、日本とスイスの国交樹立160周年を迎える記念すべき年だ。この記念の年に、日本にスイス時計がどのように広まっていったかを振り返り、160年という長い時間を通して築かれてきた両国の良好な関係の歴史を紹介する。

時計製造の盛んなヌーシャテル州出身のエメ・アンベール(Aimé Humbert-Droz1819~1900/ヌーシャテル図書館所蔵)。1858年、創設されたばかりの時計製造業者連盟の会長に就任

日本とスイスの国交樹立160周年 その始まりを振り返る

激動の江戸時代末期から関係を築いてきた日・瑞

1863年、スイス時計製造業者連盟の会長であるエメ・アンベールがスイス使節団の団長として来日。幕末の混迷の時代、江戸幕府との条約締結は容易に進まず、その後アンベール使節団は10か月にわたり日本に滞在する。翌年1月に横浜にて条約交渉を重ね、条約本文が確定する。そして2月6日、長応寺にて「日瑞修好通商条約」を締結。以来、160年もの長きにわたり日本とスイスは互いに良好な関係を築いてきた。

エメ・アンベール使節団。ベルンの連邦議会の宮殿テラスにて。中央の椅子に座るのが、エメ・アンベール。ラ・ショー・ド・フォン図書館所蔵

この記念すべき年を、時計専門誌であるウオッチナビが取り上げる理由。それは、もちろん特命全権公使だったエメ・アンベールがスイス時計の市場開拓を重要な目的にしていたからだ。とはいえ使節団が来日した当時は改暦前で、日本は不定時法を採用。また、日本の庶民はスイス時計を買えるほど豊かでもなかったという。一方、先遣隊としてひと足早く来日し、日本で市場開拓に努めたジラール・ペルゴ社の創業一族のひとりフランソワ・ペルゴは、条約締結後から日本人の嗜好を製品に反映させた懐中時計を広めることに成功。アンベール使節団の一員で、そのまま日本に残ったカスパー・ブレンワルドやジェームズ・ファブル・ブラントらも横浜の外国人居留地で貿易商館を設立する。それぞれペルゴが選んだ時計を踏襲した製品をロンジン、ゼニス、オメガ等のメーカーに発注し、日本で販売していくことになったのである。

幕府が護衛する様子を捉えた写真(F・ベアート(1863年)長崎大学附属図書館所蔵)。外出には護衛がつき、夜は幕府軍艦で過ごすよう命ぜられた

スイス時計の需要が急増した背景には、日本側の事情もあった。1864年の条約締結から3年後に、徳川慶喜が大政奉還。翌年には明治政府が誕生し、積極的に西洋文化を取り入れる文明開化が始まると、洋風建築やガス灯が街に現れ、人々は洋服を着るようになったのである。そして1873年1月1日、日本でも太陽暦を採用する改暦が行われると日本の時計の輸入数量が急上昇したのである。大蔵省が1882年以降編纂を行なった「大日本外国貿易年表」によれば、スイスからの輸入数量は2万9819個、金額にして15万5042円と、同年の袂時計(=懐中時計)の実に9割以上をスイスが占めるという記録が残っている。このようにエメ・アンベール使節団の来日から条約の締結、その後160年にわたる両国の良好な関係まで、日本とスイスをつなぐ架け橋として時計が不可欠だったことは言うまでもない。

1873年より日本は1日を均等に24時間で割った定時法を採用。写真は、昼と夜の長さが季節で異なる不定時法との違いなどを記した、「改暦辧」(福沢諭吉著)。セイコーミュージアム銀座所蔵

この国交樹立160周年を記念し、スイス時計協会FHでは日本各地で『「Imagine Switzerland」時計がつなぐ日本とスイス』と題したパネル展示を実施している。激動の江戸時代末期にやってきたエメ・アンベールの功績と、スイスの人々から見た日本、ペルゴらの商館で売られていた実際の懐中時計など、あらゆる資料や史実を知れば、さらに腕時計が好きになるに違いない。

 

構成・文/水藤大輔(本誌) 協力/スイス時計協会 FH

◎本記事は『ウオッチナビ 2024 Summer Vol.94』より抜粋・編集しています。

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