時計の名品や名デザインを呼び覚ましてくれる「インスパイア」――並木浩一の時計文化論

2020/2/21 21:35
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今回は「インスパイア」について考えてみたいと思います。この言葉が腕時計の世界で頻繁に使われるようになったのは、ここ5年くらいのことでしょうか。その代わりに「復刻」「リバイバル」という言い方がめっきり減りました。また、「オマージュ」や「レスペクト」といった文学や音楽の分野でよく使われる言葉もよく見かけるようになりましたが、インスパイアにはかなわないでしょう。インスピレーションというれっきとした名詞形があるのに、「この時計は過去からのインスパイア」のように、名詞扱いで使われることも市民権を得たようです。

ブライトリングの復刻時計から見えたもの

腕時計の世界で「復刻」ができるのは、自ブランドのアーカイブに限られます。例えばブライトリングの『ナビタイマー Reḟ806 1959 リ・エディション』のような見事な復刻(リ・エディション)には、目を見張らされるものがあります。

ブライトリングが2019年に発表した「ナビタイマー Ref.806 1959 リ・エディション」。1959年製ナビタイマーにインスパイアされた世界1959本の限定モデルで、予約が殺到。リリースと同時にほぼ完売してしまった。そのため実物を見られた人はごく限られる

 

最新の機能や素材、テクノロジーが投入されるので、復刻にプラスアルファの要素が加わる。正確な復刻にこだわるのもいいことですが、昔ながらの低い防水性能や短いパワーリザーブ、錆びやすい素材を使われても困るでしょう。だとしたらこれはむしろ「過去の自社アーカイブからのインスパイア」と、堂々と前向きに名乗ればいいのです。

一方、創業から日が浅いブランドでも、自社が存在しなかった時代の腕時計や、そもそも時計ではないもののデザインをフィーチャーするような場合に、インスパイアという言葉で表現するとしっくり来ます。例えばベル&ロス『ヘリテージ』等の秀作には、そうしたテイストが匂います。またタグ・ホイヤーがオールド・ロゴを使うモデルでは、1970年代という“エポックそのもの”へのインスパイアが感じられます。

ちょっと話は脱線しますが、筆者は勤務先の大学の応援歌を一部作詞しています。「とうとう栄光の日が来る/努力した者のために/その機会はただ一度/決して逃さない(「桐蔭横浜大学応援歌」2番より 作詞・並木浩一)」。種あかししますと、最初のフレーズはフランス国歌ラ・マルセイエーズのインスパイア。そもそもが18世紀の詩であり、著作権もないのですが、敬意を払って使わせてもらっています。オマージュでもレスペクトでもあるのですが、やはりインスパイアがしっくり来る。インスパイアは先方に断ることなく、自分の責任でするものだからでしょう。

日本の和歌にも「本歌取り」=優れた歌の一部を取って新しい和歌を作る伝統があります。「よきことは、いかにもいかにも世に広まるこそよけれ(本居宣長)」。埋もれた名品、名デザイン、よき時代の記憶を掘り起こし、呼び覚ましてくれるインスパイアは、積極的に評価してもいいのではないでしょうか。

 

【時計評論家・並木浩一氏】
桐蔭横浜大学教授、博士、京都造形芸術大学大学院博士課程修了。著書『男はなぜ腕時計にこだわるのか』(講談社)、『腕時計一生もの』(光文社。今春、台湾で翻訳版発行)、『腕時計のこだわり』(ソフトバンク新書)がある。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・学習院さくらアカデミーでは、一般受講可能な時計の文化論講座を講義する。

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